特別展紹介の最終回は、中岡慎太郎の人脈を紹介します。
〇慎太郎の薩摩藩との人脈
慎太郎が薩摩藩と政治工作を行う上で交流した人物は、西郷隆盛、小松帯刀、吉井友実、大久保利通などがいます。
なかでも西郷のことは「時勢論」(慶応元年〈1865〉冬)にて、学識があり、胆略があり、常に多くを語らず、最も思慮深く、決断に富み、言葉を発すればたちまち人々の心にひびく。かつ徳が高く、人を惹きつけ、物事を巧みに処理することができる、と非常に高く評価しています。
慎太郎は自らが描く国家構想実現のため、まずは薩長両藩連携による徳川幕府対策として、薩長盟約の締結を実現すべく西郷らとたびたび面談しています。
次に、第二次征長戦争の失敗で徳川幕府が大名統制力を失ったことが明らかになると、薩摩藩は大名連合会議の開催を画策します。
そして慎太郎もそれに関連した策を西郷らに提案したことが慶応3年〈1867〉正月3日付けで木戸孝允に送った手紙からうかがえます。
手紙には提案内容について書かれていませんが、慎太郎の日記「行々筆記 一」にある西郷と山内容堂との面談に関する記述からうかがえます。それは四侯会議を開催し、幕府から政策決定権を順次奪っていく作戦です。そして幕府を廃止にむけて圧力をかけるための軍隊を京都に送り込むことを計画していました。つまり慎太郎は薩・長・土連携による「倒幕」運動を画策したのです。
慎太郎が慶応3年5月21日に土佐の乾退助を西郷らに紹介したのは、乾が土佐藩の西洋式軍隊創設の責任者であり、京都でことが起これば乾が土佐藩兵を率いて京都に向かうことが想定されていたからです。
慎太郎と西郷は頻繁にやりとりをしていたにもかかわらず、慎太郎が西郷に送った手紙は慶応3年5月21日付け(駒澤大学禅文化歴史博物館所蔵)の1通しか現存していません。
吉井は西郷の友人であり、慎太郎もたびたび吉井と面会していることが慎太郎の日記からうかがえます。
さらに小松は、京都では島津久光の名代として、西郷と大久保の上司として、薩摩藩の政治活動を主導していたことが近年の研究で明らかになりました。事実、慶応3年正月3日付けの木戸孝允宛の手紙に慎太郎の考えた策が西郷から小松に報告され、実行に向けて協力する方向であるということが書かれています。
〇慎太郎の長州との人脈
慎太郎が長州藩と政治工作を行う上で交流した人物は、木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文などがあげられます。
木戸のことは「時勢論」(慶応元年、冬)にて「胆力と知識があり、どう行動すべきかの判断と注意が行きとどき、政治運営の場での議論ができる」人物と評価しています。木戸は長州藩の指導的立場につき、慎太郎らの働きかけに応えて、薩長盟約を締結しました。慎太郎はさらに土佐を加えた「倒幕」運動を木戸に働きかけています。
慎太郎が木戸宛に書いた手紙は10通現存しています(宮内庁書陵部所蔵)。その内容は、薩長盟約の締結を求めるもの、締結後も薩長が連携を密にするための情報を提供するものなどで、新しい国家を牽引する存在として薩長両藩を結びつけるために腐心していることがうかがえます。
高杉のことは「緻密な計画を立て、大胆かつ機敏に行動し、奇抜さで人に優れている」人物と評価しています。また、高杉が上海渡航で得た海外情報は慎太郎の対外観に大きな影響を与えたことが、「時勢論」(慶応3年〈1867〉夏)などの慎太郎の政治論策にて西洋文明を積極的に取り入れた富国強兵策を唱えている点からうかがえます。
さらに、天皇の命令で日本が一致団結して外国と対峙することを説いた久坂玄瑞の攘夷論にも影響を受けていることが、「時勢論」(慶応3年夏)などの政治論策に久坂が書いた「廻瀾條議」と「解腕痴言」を引用していることからうかがえます。
〇慎太郎と土佐との人脈
慎太郎が政治工作を進める上で同志とした人物は坂本龍馬だけではありません。乾退助、小笠原只八、本山只一郎、佐々木高行など藩内から「討幕」派と目された人々がいました。
慎太郎が慶応3年正月3日付けで木戸に送った手紙によると、慶応2年(1866)の末頃から容堂の側近が京都にやってきて慎太郎らと接触する密命を受けていることが書かれています。小笠原は慶応2年12月28日に慎太郎と面会したことが慎太郎の日記に書かれています。以後、小笠原は慎太郎と行動を共にするようになります。
乾は西郷らと面会し「薩土討幕の密約」を取り交わした後に帰国し、土佐藩の西洋式軍隊創設に尽くしました。そして本山と佐々木も乾に同調し、薩摩との連携を図りました。
なかでも佐々木は慶応2年9月に藩庁の密命を受けて九州方面へ視察に行き、9月23日に太宰府で清岡公張ら五卿付けの土佐藩士と面会してから意見が変わり、幕府に追従する姿勢を改めるべきという意見を表明するようになりました。ところが藩庁は佐々木の報告に半信半疑で、あげくには「討幕」論者とみなしました。
慶応3年6月15日に佐々木は状況視察のための京都出張を命じられました。そして京都で後藤象二郎の大政奉還論に接します。京都で政局の推移を伺っていた佐々木は同年8月3日に帰国し、イカルス号事件の処理と薩摩藩の動きを報告しています。しかし国許では保守派の反対、そして容堂が藩兵の派遣を拒絶したこともあり、後藤は容堂と薩摩との板挟みに苦しみます。また乾は容堂の藩兵派遣拒絶に反発しますが、佐々木は乾にいずれ戦争が起こるだろうからそのための準備を進めるよう説得しています。
慎太郎が土佐藩兵の京都派遣を強く訴えた慶応3年8月13日付けの本山・佐々木宛の手紙は、藩兵派遣の有無と大政奉還建白を藩論として決定するために藩庁がもめていた時期のものです。
〇慎太郎と公家との人脈
慎太郎の政治工作に関わった公家は、三条実美、岩倉具視、正親町三条実愛などがいます。
慎太郎が目指した新しい国家は、天皇を頂点とすることとしていました。「王政復古」がキーワードとなります。
そのため、朝廷のしきたりや仕組みに詳しい公家を味方につける必要がありました。
三条実美は家柄がよいこともあり急進的尊王攘夷派の公家リーダー的存在でした。しかし八月十八日の政変で京都を出て、長州、太宰府へと移動しました。そのため慎太郎は京都で「王政復古」に賛同し、行動力と決断力のある公家を探しますが、これはという人物に巡り会えませんでした。そんなとき、のちに陸援隊幹部となる大橋慎三から岩倉具視を紹介されます。
岩倉は和宮降嫁の件で尊王攘夷派から嫌われていました。慎太郎も同じ感情を抱いていたため難色を示しますが、大橋の説得で、慶応3年4月21日に岩倉に会いに行きます。その日のことは慎太郎の日記「行々筆記 一」には岩倉と会ったとしか書かれていませんが、『岩倉公実記』中巻には岩倉の深い見識に驚き、これで「王政復古」は実現したようなものだ、と大橋に語っていることが書かれています。
以後、慎太郎と岩倉はたびたび面談し、太宰府にいる三条と岩倉との和解を実現し、さらに大政奉還建白運動および薩土両藩の軍隊動員計画の情報を共有しています。そのことは慎太郎が「横山勘蔵」という変名で、慶応3年9月10に付けで岩倉に送った手紙で「後藤象二郎が兵隊を連れてこなかった。当初の案と大いに違い赤面の至りです」と書かれていることからうかがえます。
このように、慎太郎は新しい国家を作るために必要な人物を選定し、彼らと協力することで、人と人との繋がりが大きな力となって歴史の歯車を動かすということを示したといえます。
posted by nskan at 20:56|
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